奥の細道について(2)原文と現代語訳と謡のことなど

さて、前回から書き始めた『奥の細道』ですが、まずは原文と、それに対照して現代語訳(久富哲雄氏:講談社学術文庫)を紹介しておきましょう。

●=原文 ◎=現代語訳

●那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。

◎那須の黒羽というところに、知人がいるので、ここから那須野越えを始めて、野中の真っ直ぐな近道をして行こうとした。

●遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。

◎はるか遠くに一村があるのをみとめ、それを見ざして行ったところ、途中で雨が降り出し、日も暮れてしまった。

●農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。

◎そこで、農夫の家に一夜の宿を借りて泊まり、夜が明けてると、ふたたび野原の中を歩き続けた。その途中に、野飼の馬がいた。

●草刈おのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず。

◎そばで草を刈っている男に近寄って嘆願したところ、田舎者ではあるけれども、やはり人情を知らないわけではなく・・

●「いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍ぬ。

◎「どうしたらよいかなあ。案内してあげるわけにもいきませんが、とは言っても、この那須野は道がむやみやたらに分かれていて、この土地に慣れない旅人はきっと道を踏みまちがえるでしょう。それが心配ですから、この馬に乗って行って、馬が止まったところで、馬を帰してくさだい」と言って、馬を貸してくれた。

●ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名をかさねと云。

◎小さい子供が二人、馬の跡について走って来る。一人は小娘で、聞いてみると、名前を「かさね」という。

●聞なれぬ名のやさしかりければ、

◎聞きなれない名前が、いかにも優雅に感じられたので、

●かさねとは八重撫子の名成べし 曽良

◎かわいらしい子供はよくなでしこにたとえられるが、この小娘は「かさね」という名だそうだから、なでしこならば花びらの重り合った八重なでしこの名であろう。

●頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。

◎まもなく人家のある村里に着いたので、馬の借り賃を鞍壷に結びつけて、馬を帰した。

◆◆◆◆◆

この段を書写しながら読んだときに、まずはいくつもの謡(能のせりふ)が口をついて出ました。

たとえば「是より野越にかゝりて、直道(すぐみち)をゆかんとす」。これは能『遊行柳』や能『山姥』に似ています(「またこれに数多の道の見えて候。広き方へゆかばやと思ひ候」とか)。詳細は後でね。

それから「遥かに一村を見かけて」。これは能『雲林院』の「遥かに人家を見て」云々の謡。そして続く「雨降り日暮る」。これは能の常套パターン。この後に何者かが訪れる。

次の文の「一夜を借り」、これも能ではよくあるパターン。この一夜が不思議な一夜になります。そして同文中の「明くれば」。これは能『松風』の謡。この「明くれば」の一句は非常に大切で、この一句で不思議世界が現出する雰囲気を作ります。

それから「さすがに情しらぬには非ず」は、後の「やさしかりければ」と呼応して、やはり能の謡を思い出させます。たとえば能『雲林院』の「惜むも乞ふも情あり」とか「あらやさしの旅人」とか「かかるやさしき狂女こそ」とか、さまざま。

◆◆◆◆◆

そして写し終わり、読み終わったときに、ずっと長い間忘れていた感覚が甦りました。

それはうまく伝えられないのですが、世界が逆転する感覚というか、ちょっと位相がずれる感覚というか、そんなものです。

chouden04b子供のころ、特に雨が降っている朝、小学校に向かう電車の駅にいると、本当は右から来るべき電車が左から来たりしたことがありました。お腹の調子が何となく悪く、吐き気を催してくる。で、周りの友達を見ると、みんな平然としている。それを見て、よけいに気持ち悪くなる。これは電車の間違いではなく、自分の内部の感覚が逆転していたのです。

で、そんな日は学校に行っても、すべてがちょっとずつチグハグで、いつもの教室にいるのにいつもの教室ではない、友達も先生もちょっとずつ別人のように感じられる、そんな感覚です。

ありますか。そういうのって?

で、そんなときは決まってお腹の辺りがちょっと変なのです。お腹の中も逆転している。

奥の細道について(1)

今週は黛まどかさんとの対談があります。

そこで芭蕉の『奥の細道』を読み直しています。

『奥の細道』は、前に『ワキから見る能世界(NHK出版)』を書いたときに芭蕉の自筆本(伝)を臨書(というか、本当は<なぞり書き>)しながら読んだのが、通読した最初で、そのときにその不思議世界の毒気にすっかりやられてしまいました。

ほんの最初の、那須の黒羽にかかったところの段がすごいのです。

が、それ以降、いろいろすることがあって、ゆっくり読んでいる暇はなかったのですが、今回読み直して、前回と同じ那須辺りで、またまた引っかかってしまいました。

那須には、いつもお世話になる二期倶楽部があるし、殺生石、遊行柳という能にちなんだ歌枕もあるし、なかなか不思議な土地なのです。

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そうそう、芭蕉の弟子である土芳の書いた『三冊子』は、能勢朝次氏の注釈があり、これが本当に面白い。不易流行とか風雅の誠の論が書かれている『三冊子』自体も当然、面白いけど、能勢朝次氏の注釈がすごい。氏には世阿弥の十六部集の注釈もあるし、幽玄論なる名著もあるし、能好きにはたまらない人なのです。

芭蕉や蕉門の俳句のベースには、能をある程度知っていることが大前提としてあります。紀行文である『奥の細道』も、もちろんそう。

芭蕉自身が、能の中のワキとして奥の細道を旅しているわけですから、『奥の細道』の一段一段を能の一曲一曲として読んでみると、これまた興がある。

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『杜若(かきつばた)』という能があります。

諸国遍歴の僧が三河の国(愛知県)の八橋に行きかかると、そこにどこからともなく若い女性が現れて、いろいろ話をするうちに、その女性が実は杜若の精霊で、『伊勢物語』の主人公である在原業平や高子の后の装束を着て、『伊勢物語』の世界を舞いつつ、それをそこに現前させるという能です。

そこで再現されるのは「東下り」の段です。

能『杜若』は、室町時代の人からすれば、平安時代の王朝絵巻である『伊勢物語』の東下りの段が、数百年の時を経て、現代(室町時代のね)にバーン!と立体的に再出現したという感じがしたと思うのです。

『伊勢物語』と能『杜若』を比べると、能の方が『伊勢物語』よりもずっと長い。伊勢を読むと10分もかからないけど、能は1時間15分くらいかかる。となると、ぐっと圧縮されていた『伊勢物語』を解凍して、舞台芸能として立体化したのが能だと考えることもできるのではないでしょうか。

舞台芸術の特徴は、それが常に「現在形」で語られるということです。作り物語のように、未来から振り返って、その時を語っているわけではない。その先に何が起こるかわからない。<現在>は、未来を孕みつつ、しかし何が起こるかわからないという不安と不確実性が常につきまといます。しかし、同時に未来へのシカケ(伏線)もしてある。

で、『奥の細道』もそんな風に読んでみます。圧縮してあるものを解凍しながら、謡にして謡いながら、ついでに動きながら読んでみて、あとでそのシカケに気づくと、とても面白いのです。

◆◆◆◆◆

時間があるときに那須の黒羽のところだけでも書いていこうと思っています。本当は謡いながら動きながら読みたいのですが、ブログではそういうわけにはいかないのでどこまで伝わるか・・。

説明責任?

またまた事業仕分けの話から。

今回の事業仕分けを受けて、テレビなどでもいろいろ議論がされていますが、その中で、「この事業が何のために必要か、ちゃんと説明をする責任がある」というのがあります。

それはある意味正しいのですが、しかし、その「説明」というものが、本来は方便以外の何ものでもないということは、しっかりと理解しておかないと「説明」信仰に陥りやすい。

何かをしようと思うときは、それが「したい」と思うからです。で、その動機を言語で説明するというのは本来は無理だと思うのです。

いや、やろうと思えばできます。が、その理由は本来は膨大にあって、それをすべて語るには膨大な時間がかかります。そのために、膨大な理由の中から、いま目の前にいる人が納得できる理由を探し出す。

が、それを言ったとたんに、そのほかの理由はその「地」になってしまうわけで、それはそれでウソになるのです。

◆◆◆◆◆

「<たとえ>は、それを出したとたんにウソになる」といいます。同じく、説明はそれを言ったとたんにウソになります。

「まあ、方便というのはわかっているんだけれども、一応安心したいから説明して」という意味での説明ならいいのですが・・・。

◆◆◆◆◆

古典芸能の稽古というのは全く説明がありません。質問はなし。

内田樹さんの「日本辺境論」にも、師が弟子に教えるのは「コンテンツ」ではなくて「マナー」だ、とあります。以下、ちょっと「日本辺境論」より引用。

・・弟子が師に向かって「先生、毎日便所掃除とか廊下の拭き掃除とかばかりで飽きちゃいましたよ。いつになったらぼくに極意を教えてくれるんですか。ねえ、先生ってば」というような督促をすることは許されません(ふつう、そんなこと言ったら即破門)。というのは、師弟関係を起動させるためには、師はできる限り弟子から見て無意味と思える仕事をさせるに決まっているからです。・・・

で、このあと・・

それが一番効率的だから。

・・と続きます(144ページです。続きはぜひ、本書をお読みください)。

◆◆◆◆◆

そうなんです。この「説明がない」ということが、実は「一番効率的」なのです。

説明をたくさんしちゃうと弟子は自分の頭で考えることを放棄します。いつも教えてもらうことを期待します。そうなると、その人はオペレーション人(命令をされて作業をするだけの人)になってしまいます。

むろん、すべての人にこれを期待する必要はないでしょう。多くの人はこれ(質問なし、自分で考える)に耐えられません。

それは悪いことではなく、「俺は考えるのは苦手で、人が考えたことをするのが好きだ」という人がいいとは思うのです。将校だけで兵士のいない軍隊というのは戦いができません。

◆◆◆◆◆

とはいえ、現代人である私たちは兵士になるのもイヤだし、「命令」に従うのもイヤです。「命令」には、なかなか従えなくなっています。

しかし、テレビCMとかワイドショーとかに影響されて、何かの行動を起こすというのも、ひとつの「命令」に従っている行為だといえるでしょう。私たちは、テレビCMの「命令」とか、ワイドショーの「命令」とか、そんな<命令にはみえない「命令」>には嬉々として従います。

「説明」というのも、ひとつの「命令」なのです。

命令というのが言いすぎだとしたら、「説得」、あるいは「洗脳」といってもいいかも知れません。

◆◆◆◆◆

だから、ある事業を思いついて、それを「ねえねえ、こんなのするんだ!」と話したときに「それを何のためにするのか」と聞く人と、「もう少し詳しく話して」と聞く人は全く違います。

さらに、「面白そう!」といって細かいことを聞かずに、すぐに参加をしてくれたり、援助をしてくれたりする人は、これまた全く違います。その人の関わっている分野で活躍している人に、そういう人が多いようです。

このごろそういう方とのお付き合いが多くなったので、ストレスが非常に減りました。ありがたい限りです。

著者による国語の授業

来年は国民読書年なので、NPO法人「天籟(てんらい)」と「和と輪」の合同企画で、いくつかの事業を計画中です。

・・が、今回の事業仕分けで予定のものが、すべて廃止になってしまったので縮小せざるを得ないのですが・・。

そのひとつが「著者による国語の授業」です。

本の著者が自著を授業します。

いわゆる出前授業と違うのは、あくまでも「国語」の授業ということ。国語の授業ですから指名とかがあって、指された人は立って読むとか、最後に小テストとか漢字テストとかがあったりとか、宿題を忘れた人は立っているとか(は、ないかも知れないけど)、いろいろあります。

能の五番立てにのっとって五人の先生が「神(脇能)、男(修羅)、女(鬘物)、狂、鬼」で行います。本当はこの順番で行いたかったのですが、さまざまな事情で順番は変わります。

◆◆◆◆◆

現時点での先生としてご快諾いただいている方々は以下の通りです(最初は安田がさせていただきます)。

1.脇能:安田
2.修羅物:林望先生
3.鬘物:黛まどか先生
4.狂:内田樹先生
5.鬼:片平秀貴先生

また朗読・音楽担当として槻宅聡さん(能管)、奥津健太郎さん(狂言師)、安田が特別参加します。

日程は未定ですが黛さんは3月初旬までの間に、内田さんは夏休み(8月)を考えています。そのほかの先生方はまだ決まっていません。

校長先生とPTA会長も考えています。それはサプライズということで・・。

◆◆◆◆◆

募集する生徒は50名。その他にPTA参観席を50席作る予定です。募集は今年中に日程を決めて、来年早々から開始します(・・ので、今言われても対応できませ〜ん)。

募集人数が少ないので、募集は「和と輪」と「天籟」のホームページ、及び和と輪のメルマガだけを考えています。基本的には早い人順です。メルマガ→(翌日)ホームページの順番で募集します。

PTA参観席の方は指されない代わりに質問もできません。生徒は指されるし、テストを受けさせられたりもします。変な質問ばかりする人や冷やかしの人は退学させられます。

生徒に関しては全5回分のチケットを購入していただける方を優先します。ちなみに出席を取りますが、出席及び成績優秀者にはちょっとした(「ちょっとした」を強調!)サプライズが用意されています。

・・・が、実は僕は学生時代の語学はほとんど後輩が取ってくれたので、代返とかOKです(チケットを誰かに譲るとか・・)。

◆◆◆◆◆

修学旅行とか文化祭もいいなあ、と思っています。

現在、NPO法人「天籟(てんらい)」を中心に企画中です。

お楽しみに!

上士別のいとこ

一昨日は札幌の隣の江別市にある「北翔大学」での授業、そして昨日は北海道の士別市にある、上士別(かみ・しべつ)小学校というところで授業をしてきました。

北翔大学では最初のコマ(1年生対象)では能の話を中心にしたのですが、次のコマ(3年生)では甲骨文と『論語』の話をしてしまいました。かなり渋い話だったし、ことさら盛り上げようとも思わず授業をしたのですが、ひとりも寝ずに最後まで食いついてきてくれました。

偉い!

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さて、上士別です。上士別は士別市にあります。で、士別市は旭川から車で1時間半くらい・・だったのですが高速ができて1時間を切るようになりました。

上士別にはマサヒコという同年齢のいとこがいます。子どもの頃から、兄弟のように育ったいとこで、彼の娘さんである「ももちゃん」が小学校六年生なので、その学校に授業に行ったのでした。

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一昨日の夜遅くに旭川に入り、朝にホテルまでマサヒコが迎えに来てくれました。

旭川では雪がチラついている程度だったのですが、士別に向かって行くと、だんだん雪が深くなります。

<以下、写真はクリックすると大きくなります>

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途中でヤマザキパンの看板を見たら、急に菓子パンが食べたくなり(朝食はちゃんと食べたのに・・)、「どこかでパン買える?」と聞くと、「ムリ」という即座の返事。

ワッサム(和寒)というところでの会話。

が、ややあって「あ、峠を越えればあるかも」という。塩狩峠です。

雪も降っているし、塩狩峠だし、すごく北海道に来た感じがして、思わずホワイト・クリスマスを思い出すという恥ずかしいほどに短絡的な連想をしながらもニコニコしながら車に乗っていました。

で、峠を越えたところにあったコンビニでアンドーナツを買って、ムシャムシャ食べながらマサヒコの家に行き、着替えて学校です。

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◆◆◆◆◆

上士別小学校は全校で50人ほどの学校。

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4時間目は1年から3年までの子どもたちに授業。声を出したり、すり足をしたり、ワーワー騒ぎながら、あっという間に45分が終わってしまいました。質問もすごく多くて、給食の時間だというのに15分以上も過ぎても離してくれません。

5時間目は4年生から6年生までの授業(間に昼食)。

こちらはちょっと落ち着いて、いろいろな話やら実演やらをしたり、子どもたちにも体を動かしてもらったりと、いろいろできました。でも、相変わらずテンションは高く、やはりあっという間の45分でした。

両方とも、やはり2時間ずつは欲しいのですが、近頃の学校はカリキュラムを消化したり、行事を消化したりと大変で、能の授業なんかをゆったりやっているヒマはないのです。

さて、夜には校長先生とPTAのお父さんたちが、いとこのマサヒコの家に集まり、みんなでワイワイと23時過ぎまで話(というか宴会)をしました。校長先生もいいし、お父さんがたも楽しい方だし、いいなあ。

そうそう。ちなみにそこで「農作業をするときの身体」についての話になり、このことについてはまた書きますね。

みなさんが帰った後も、マサヒコや奥さんのケイコさんとは1時30分くらいまで話して、楽しかった!

実は彼らは青春時代に中央線沿線でワイワイやっていた仲間なのです(マサヒコは1991年に奥さんとともに北海道に移住したのです)。いまはなくなってしまった吉祥寺のぐゎらん堂とか、高田渡さんの話とか、そんな話も久しぶりにしました。

ちなみに彼の持っているマーチンD-15は、僕が知っているマーチンの中でも最もいい音のするギターの一台です。特に低音弦の音がすごくて、最初に聞いたときには「ギターって本当はこんな音だったんだ」って目から鱗(あ、耳から鱗)が落ちました。

まるで二台のギターで弾いているように聞こえるのです。

そうそう。そのときにいっしょに遊んでいた友人(高校時代の友人)が、いま失踪中なのです。サトウ君といいます。

サトウ!どこかでこれを見ていたら連絡ください。

◆◆◆◆◆

さて、マサヒコはこのごろ家を作っています。

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もともとあった家を買って、それを自分なりに作り直しているのです。というとリフォームみたいだけれども、それどころではない。ほとんど全面の作り直しです。

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解体される家から梁をもらってきたり、廃材をもらって来たりして作っているのですが、ひとりでそれをしているというのです(たまには人に手伝ってもらいながら)。

「ひとりでやるのは大変じゃないか」と聞くと、「その方が気楽だから」といいます。さらに「図面とかないし、作りながらアイデアが出てきて、それでやるからね」とのこと。

なるほど!

事前に図面を引き、未来図を作って何かをするというのもアリだけど、こんな風に「今」を起点に、どんどん作り上げていくというのもアリです。

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実は僕の書く本もそれに近くて、手から出てくるに任せて書いていくうちに、いつの間にか全体の構成が見えてきて、そこで目次案のようなものを作ることが多い。むろん、企画を通す段階で、ある程度の目次案のようなものは作るんですが、それはむしろ方便。その通りにいくことなど絶対にない。

ワークショップや講演となると、さらにそれが徹底している。事前にすべてを決めるなんてことはほとんどない。・・というか、事前にはほとんど何も決めずに会場に入る。

で、まずは会場の雰囲気である程度のことが決まる。あとは参加者の顔やうなづきや、そんなものを感じながらやっていく。

悪くいえば、行き当たりばったり、計画性がない。よくいえば臨機応変(あ、悪い方が多い)。

だから今回のように学校でするときも、「何をするのか事前に教えてください」などといわれると困ってしまう。一度も会ったことがない生徒に、事前に何をするかなんて決められるはずがない。

今回は間に入ってくれたのがマサヒコだから、そんなことは一度も聞いてこない。

やはり、いとこだなあ。

論争嫌い

今日は札幌にいます。大学で授業をして、夜に旭川に移動。明日は士別の小学校です。



内田樹さんのブログを読んでいたら「論争嫌い」とあった。

僕も論争は大嫌いで、だいたい論争なるもので勝ったためしがない。論争をするくらいなら、その組織を抜けた方がいいと思う方なので、よくいろいろな組織を辞めたり、抜けたりします。

いや、正直にいえば論争どころか、議論そのものが苦手なのです。

「そんなんじゃ、民主主義をやってられないよ」とか、「それはズルイ」とか、よく批判をされるのですが、「口がうまい人が一番偉い」というのも変だとは思うのです。

先日、小学生たちの稽古で二人の子が喧嘩をしていて、お互いに相手が悪いと言い合っていたので、「じゃあ、どっちが悪いかジャンケンで決めれば」と提案したら、「そんなの変だよ」と今度は二人して僕を責めだして、一件落着になりました。

たまには、ひとつの議題をジャンケンで決めるとか、ボクシングで決めるとかがあってもいいとは思うのですが・・。



内田氏曰く・・

「論争」というものが生産的になることはない、というのが「文科系」の学問の宿命だからであるからである。

もっとも!です。

さらに引用・・

論争を「愚者を教化する機会」だと思っている人間は、スターリン主義のソ連や金正日の北朝鮮に生まれていれば、強制収容所や政治犯の粛清に喜んで同意するタイプの人間である。

私は「そういう人間」を直感的に見分けることが出来る。

強制収容所の「囚人になる人間」と「看守になる人間」は、そのような制度が存在しない社会においてもはっきりと識別できる。

論争を好むのは「看守」たちである。

だから、私は彼らとはかかわりあいを持たないことにしているのである。
 


そうだ!そうだ!

論争や議論が苦手なので、今までそれをうまく言うことができずに「さっさと辞めちゃう」という手で逃げてきたのですが、なんかとってもスッキリした〜!

僕が幼少期を過ごした漁村では、議論なんかしている人は誰もいなかった(ドスもって喧嘩している人はいたけど)。

学校でもそうです。議論をするくらいなら、ひとりひとりが好き勝手に行動をした方がいい。高校になっても、「クラスで文化祭で何をするか」なんてことにマジメに取り組んでいたのは、ごく一部の生徒で、後は勝手にやっていた。

およそ人の行動を阻むものには、二種類あるような気がします。

ひとつは壁。これは乗り越えるのが気持ちがいい。

で、もうひとつがブレーキ、あるいは枷(かせ)。これがすごく気分が悪い。

「何かをしたい」と思ったときに、「それはこんな問題があるから、やめた方がいい」とか、「こっちの方がいいよ」と言い出す人がいる。その人を説得しているだけでかなりの時間のロスになるし、僕の場合はだいたい失敗する。

そんなブレーキや足かせを引きずりながら、前に進むのは、とっても大変。

そんなときはお互いに「したい」と思ったことをした方が(いいか、どうかはともかく)話が早い。失敗しても、まあ仕方ないかと納得ができる。次への立ち直りも早い。

論語の「道同じからざれば、相い為に謀らず」というのは、こんなときのことをいうのではないかと思っています。



以前に、エイズの本を二冊ほど書いたことがあります。

エイズのボランティア・グループのための資金稼ぎのためでした。もう20年ほど前にもなるのですが、当時はエイズに対する偏見はすごく、特に性的接触(という、これまたすごい名称、要はセックス)による感染者に対する差別は、厚生省ですらしていた。そんな時代です。

知人に、その性的接触!で感染をした人がいて、厚生省も、当時あったさまざまなボランティア・グループも全く相手にしてくれなかった(どころか、すごい差別をした)ので、じゃあ、その人をサポートするためのグループを作るか、っていうことで作りました。

で、そのグループを作るときに「手つなぎ鬼方式」というものを考案しました。

・・・この話は前に書いたかな。でも、いいや。もう一度、書きます。

「手つなぎ鬼」というのは鬼ごっこの一種で、鬼が誰かを捕まえると手をつなぐ。すなわち二人一組の鬼ができあがります。

 鬼:ひとり捕まえると

●−● 鬼が二人になる

そして、もうひとり捕まえると、また手をつなぐ。三人一組の鬼になります。

●−●−●

で、もうひとり捕まえる。そうする今度は、その鬼が二人、二人の二組に分裂するのです。すなわち二組の鬼ができあがる。

●−● ●−● 二組の鬼

逃げる方は二組の鬼に追いかけられる形になる。

●−● ●−●−● 二組の鬼:もうひとり捕まえると

●−● ●−● ●−● 三組の鬼

こんな風にして、すごい勢いで鬼が増殖していって、逃げる方は大変になります。

で、グループにおける手つなぎ鬼方式というのは、「ある程度の人数になったら分裂しよう」、あるいは「意見が分かれたら、新たなグループと作って分裂しよう」というものです。分裂しやすくするための仕組みも考えました。

論争をするより、互いにやりたいことをやろう!です。

むろん、この方式ではグループは大きくなることはありません。最初から、そのための爆弾が仕掛けてあるわけですから当然です。

でも、「グループを大きくしよう」と思ったとたんに、最初の「やりたい!」という動機からは外れてしまいます。最初の動機から外れると、やる気が大きく殺がれます。大きく殺がれたやる気で、それでもやっていくためには金銭的なこととか、名誉的なこととか、新たな動機が必要になります。

となると、少なくとも僕はワクワクしなくなる。

そんなわけで、この「和と輪」も、寺子屋も、そしてNPO法人「天籟(てんらい)」も手つなぎ鬼方式が基本になっているのです。

「册」でのワークショップ

昨日、千鳥が淵の『册(さつ)』でワークショップがありました。

「論語」のワークショップで、前回にも書いた【からだをつかって本を読むー『ロンゴ』を読み解くワークショップ】です。

今回は子どもが中心だと思っていたのですが、子どもは残念ながら約1割。

いつもながら事前に何をするかはほとんど決めず、参加者の方とお話をしながら決めていきますので、自分の備忘録も兼ねて昨日の流れを書いておきます。

●身体文字のクイズ

甲骨文字や金文をホワイトボードに書きながら、さまざまな身体文字が現代のどの文字になっているかを考えてもらいました。

手→「左」、「右」、「有」、「受」、「獲」など
足→「各(客)」、「降」、「止」、「歩」など

●身体文字を体で表現する

グループで、さまざまな身体文字(特に「人」に関する文字)を体で表現しながら、その文字が今のどの漢字になっているかを考えます。

●呼吸の練習

身体文字のひとつ「欠(あくびの形)」から、あくび呼吸とストロー呼吸の練習をしました。ストロー呼吸は、シャボン玉を使いながら行います。

「息」には「心」という文字が入っていることに注目。「心」は孔子が生まれる、ほんの500年前にできたばかりの新興概念。『論語』はその「心」の使い方を指南した世界最初の書物!

呼吸筋は、意識(心)的にコントロールもできるし、無意識のときでも動いているという不思議な筋肉。さらには呼吸をコントロールすることによって、自分の無意識や自律神経すらもコントロールできるという不思議な機能をもつ動作。

呼吸を意識的にコントロールしようなんてするのは人間だけ。

そして、もうひとつ人間を人間たらしめているものとして「マネ」があるという話をしたあと・・

●學(学)の意味の話

金文を書きながら「学」とは、身体によるマネの学習だということを話しました。

●「学」を実際にやってみる

狂言の動きをみんなで行いながら「マネ」とはどのようなものであるかを知る。声も出しながら、筋肉の動きの説明もしながら・・。

・臼を引く、弓を引き放つ、櫂で漕ぐ
・怒る、泣く、笑う

みなさん、かなりノッて上手にできていました。

大事なことは、たとえば「弓を引く」でも、弓を引くつもりでするのではなく、ただ型をマネすること。そして、それをマネしているうちに、いつの間にか自分でも弓を引いている気分になることです。

それが「学」です。

それによって、自分が体験したことがないこともできるし、そこに起こる感情すらも感じることができるのです。

ちなみに人間の表情筋は英語ではミミック・マッスル、マネをする筋肉です。飼い犬が人に似てくるのは、実は間違いで、人が犬に似てくるのです。

●「学而時習之」の話

古代文字による各漢字の説明と、そして体を動かしながらこの章句が持つ身体的な意味を説明。そして、だからこそ学習が「悦楽」になるということを感じてもらう。

●甲骨文をひとつ読む

寺子屋の甲骨文虎の穴でも扱っている<双頭の龍、現る!>の甲骨文の一部を読みました。

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●甲骨文字のアニメを見てもらう

シネ・グリーオ(僕が役員をしている会社)が試作中の甲骨文のディジタル教材のための動画企画書から、甲骨文字のアニメを見てもらいました。甲骨文「虹」に関連するアニメです。

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以上です。

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『册(さつ)』は千鳥が淵にあるので桜の頃はとても美しい!

そのころにまた何かをしたいなあ、と思っています。

大ショック!事業仕分け

今日は、これから「册」でのワークショップです。

【からだをつかって本を読むー『ロンゴ』を読み解くワークショップ】

・・というタイトルです。

こういうタイトルは自分でつけるのではないのですが、今回のタイトルは「なるほど!」という感じで、こんな風にタイトルをつけていただけると、何をどんな風にしたらいいかということが自ずと見えてきます。
 
というわけでテキストも作り終わり、ちょっと時間ができたのでブログを書いているのですが、先週は大ショックなことがありました。

例の「事業仕分け」です。

◆◆◆◆◆◆

事業仕分けの初日に「廃止」に仕分けされたいくつかの事業は、お世話になっている、あるいは将来お世話になろうと思っていた事業です。

たとえば「子どもゆめ基金」や「伝統文化こども教室」、そして「若者自立塾」。

2,000年に作ったNPO法人「天籟」主催で、近所の子どもたちに伝統芸能の教室を開いています。これは「伝統文化こども教室」からの助成金で行っています。

これとても潤沢な助成金をいただけるわけではなく、講師として来て下さっている先生方には、業界の常識からは考えられない薄謝でお願いしています。

それでも、伝統芸能に全く縁のなかった子どもたちが、わいわいと稽古ができるのは、この助成金のおかげです。

伝統文化に興味があり、そしてご家庭に経済的な余裕がある子は、このような助成金がなくても、ふつうにお稽古代を払っての稽古が可能です。しかし、NPOの役割は、そうではない子どもたちにそのような体験の機会を用意することです。

講師の先生だって、「将来、お金を払って稽古に来てほしい」とか「能の観客に仕立てたい」という下心があってやっているわけではありません。いま稽古に来ている子たちは将来、能の観客にならない子がほとんどでしょう。

でも、子どものころに、このようなことを経験することに意味があるのです。

◆◆◆◆◆◆

若者自立塾の議論のときに「費用対効果」という言葉を使っていた議員さんがいました。

確かに子どもたちが古典芸能に触れることの費用対効果を考えれば、意味はないかも知れません。「子どもが古典芸能をすることにどんな意味があるんだ。ちゃんと数値で示せ」といわれても、それはちょっと無理です。

むろん、無理やりなんとかやる方法はあるでしょうが、その途端にそれはウソっぱちになります。

・・・で、そのウソっぱちをやった途端に、NPOは最初の力を失います(組織としては大きくなるでしょうが)。

費用対効果を考えると、確かに意味のない事業かも知れないのですが、しかしそれでもやっぱり、絶対!意味があると思っています。

こういった助成金の打ち切りは、さらなる格差を作ります。文化格差です。

「文化にはお金がかかるのは当たり前。お金に余裕のない家庭の子は、テレビなどのような安価な文化で我慢しなさい」と言っているようです。

「子どもゆめ基金」で来年行う予定の事業に関しては、かなり多くの方が参加していただいていて、ちょっとびっくりするくらい面白いものができる予定だったのですが、あまりこんな愚痴を書いても仕方ないのでやめます・・・。

若者自立塾に関しては「たった0.1%の人のために国庫を使うのは」云々ということを言う人もいました。すごい論です。

◆◆◆◆◆◆

むろん、とはいえ、今まで多くの事業がいい加減にされてきたことも事実でしょう。そして、ちゃんとやっている事業と、適当にやっている事業をひとつひとつチェックするほどの余裕(と、そして何より能力)が、政府にないこともわかります。

しかし、あそこの俎上に乗らない事業にこそ仕分けすべきものがあると思うのですが。

まずは、あの「仕分け」という事業に、準備や中継なども含めて、どのくらいの費用がかかったかを明らかにするとかね。

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さて、大ショックはショックですが、しかし考えようによれば、これは「新たな方途を模索せよ」というメッセージです。

そんなわけで、まずは大ブーイング、不満ぶちまけ大会をかまして、そして次にはワイワイ楽しみながら次の道を、うちのNPOでは模索中です!

『論語』の本が11月中旬に出ます

やっと『論語』の本が書き終わり、今月の中旬には書店に並ぶ予定です(春秋社刊)。図版も、イラストレーターやらPhotoshopやらLightwave3Dやらと格闘しながら自分で作りました。お買い求めいただければ幸甚です。

松岡正剛さんが帯を書いて下さっています。松岡さんと編集工学研究所には今回の本で大変お世話になりました。

しかも丸の内の丸善本店の松丸本舗の松岡さんの掲示板には、すでに『論語』の本の表紙を貼っていただいていました!本当にありがたいです。

『論語』というのは世界で最初の「心」を扱うための指南書ではなかったか、ということを「古代文字」と「身体性」の両面から考えながら書いています。ですから今までの論語の本とはだいぶ違うのですが、しかし知人に「論語の本を書いた」というと、「難しそうだから、今回はいいや」と言われます。「論語ってナンだっけ」とも、よく言われます。

いままで本を書くときには、原稿の段階で娘に読ませて、「眠くなる」とか「わからない」と言われたところは書き直して来たのですが、ベースボールマガジンさんの本を書いたころは中学生だった娘も大学生になり、そういう意味のテスターとしてはあまり有効ではなくなりました。

が、今回は寺子屋にご参加いただいたみなさまにお話をさせていただいたことがすごくいい経験になりました。寺子屋には小学生も参加しています。ちょっとおませな小学生には読めるし、中学生、高校生なら問題なく読める。そして大人が読んでも面白い本にしました。

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この本は本当に長い時間がかかった本で、かなり前から構想やら本の構造やらはあって、去年の4月か5月に書き出し、何度も書き直してやっとできあがりました。その間に、ほとんど本になるくらいまで書いた原稿がいくつかあります。

そういう原稿は今までは捨てて来たのですが、今回のものはちょっと手直しをすれば本になるので、いつか出したいと思っていて、HDに取ってあります。

ただし安田と論語が結びついていない現時点では、確かに本にしても相手にもされないような内容なので(かなりマニアック)、そこは急ぐ必要はないですね。

身体系の本のときも最初は大変でした。

ロルフィングの資格を取った頃、「ルロフィングの本を書きたい」と知人の紹介で某出版社に持ち込んだ時には、「ロルフィングって誰も知らないよ」と全く相手にされませんでした。能と身体性の時もそうです。

ところが近しい人にワークショップを始め、それを朝日カルチャーセンターの二階さんが目をつけてくださり、朝日カルチャーセンターで始めるようになり、さらにはBAB出版の『秘伝』などの雑誌などで取り上げられるようになって、連載を持ったりして、こちらが求めなくてもいろいろな書籍のお話をいただくようになりました。

『論語』も、そんな風になっていけば、いいなあと思っています。

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今回は身体系のときよりは恵まれていて、ワークショップやお話をさせていただく機会を多くいただいています。

まずは松岡正剛さんが幹事長をされる「日本と東アジアの未来を考える委員会」。この会合では何度か『論語』のお話をさせていただきました。特に登大路セミナーでは長い時間を頂戴いたしました。

また、片平秀貴(丸の内ブランドフォーラム)さんから依頼されて日本マーケティング協会でもお話させていただいたのですが、そこでも能の話とともに『論語』についても少し話しました。

第4回AIDEESシンポジウム:ロングセラーブランドをつくるマーケティング:「世阿弥」と企業事例に学ぶ・・というセミナーでした。

川口市のメディアセブンでは、出張寺子屋を開催してくださいました。その寺子屋の前半部分がすでに、デンリュウサイタマでレポートされていました。

そして、今度は千鳥が淵の『册(さつ)』でのイベントです。

今月の6日(金)19:00と15日(日)15:00です。6日のは座学、15日のは体を動かすワークショップです。座学といっても、ただ座って話を聞くのではなく(2時間もそんなことしたら飽きちゃうでしょ)、作業をしていただきながら行う予定です。

「心」という漢字がなかったころ、感情の多くは身体文字で表現されていました。感情は身体の動きだったのです。いまは身体を伴わない感情が多いので、たまっちゃうのかも知れませんね。

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そんなわけで『論語』の本、どうぞよろしくお願いいたします。題名、価格等の詳細はまた書きます。

11月の寺子屋事情

これはメルマガで配信した内容にちょっと手を加えて、ここに書いています。

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やっと再開した寺子屋ですが、11月の再開の目途がまだ立っておりません。・・と申しますのは、近所の小学校の演劇フェスティバルが11月末にあり、その稽古のために夕方の空いている時間はすべてそちらに振り分けてしまったためです。小学校は行事が多く、ひとつの行事の準備が一ヶ月しか使えないのです。

で、仕上がりがよかったら寺子屋をさせていただきます。またまた急なお知らせになりますが、どうぞよろしくお願いいたします。

その代わり・・といってはナンですが今月はイベントが目白押しです。

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『論語』は册(さつ)で!

千鳥が淵(九段)に「册」という二期倶楽部のもつスペースがあります。書籍空間、現代アート、カフェの総合ギャラリーで、書籍編集を松岡正剛氏、空間設計および書籍インテリアは内藤廣氏というすごい空間です。

ここで、『論語』のお話とワークショップをします(主催は「册」です)。

11月6日(金)19:00〜21:00(受付18:30〜)
トーク&交流会「能と論語からひもとくー心と天のはなし」

誰もがストレスと抱えている現代、生き方指南書として改めて「論語」が注目されています。自由意志としての「心」と、本来、内なる超越者という意味を含む「天」など、言葉の持つ深い意味に触れながら、お話します。

実はこれは山のシューレのときに講師連が「三冊の本」を選んだものを巡回展示している、その関連のイベントです。ですから、ここでは『論語』の話だけでなく、僕の選んだ三冊の本の話もします。

特に『南アフリカにいます神(アルバート・ノーラン)』はすごい本です。ぜひ、聞いてください。この本が『論語』における「天」とは何かを考えるきっかけになりました。

参加費:お一人様 3,500円(税込み、1ドリンク、軽食付)定 員:30名

11月15日(日)15:00〜17:00(受付14:30〜)
ワークショップ「からだをつかって本を読むー『ロンゴ』を読み解くワークショップ」
実際に身体を動かすことで心を開き、能と論語のこころを学んで行きます。親子でもご参加いただけます。(お子様は7歳以上)
参加費:お一人様 3,500円(税込み、茶菓付)定 員:15名

http://www.satsu.jp/kudan/archives/2009/10/post_70.php

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身体サミット

我が敬愛する河野智聖氏と、跡見順子氏(生命科学者・東京大学名誉教授)の3人が集う身体サミットです。

最初に30分、各々の講師の時間があって、その後に鼎談なのですが、講師の30分も河野智聖氏が話を聞きだしてくれます。となると、何が飛び出すかわからない楽しさが!僕も今からワクワクです。

【日時】11月3日(文化の日) 開場:12時半
    第1部:13:00〜14:35 第2部:15:00〜16:30
【会場】東京大学〜武田先端知ホール〜             
    東京大学 本郷キャンパス
    工学部 武田先端知ビル(5階ホール)
【会場】東京大学 本郷キャンパス 工学部
    武田先端知ビル5階ホール
    
【入場無料】どうぞお誘いあわせの上、ご来場下さい!!

【問合せ】自由人(ミュート)ネットワーク
     メール :meuto.tokyo.3010@ezweb.ne.jp
     電 話 :03−3469−0310
           http://meuto.jimdo.com
【主催】ミュートネットワーク  身心一体科学研究所

詳しくはWebで→ http://meuto1103.jimdo.com
身体サミット専用サイト 〜生命の構造を読み解く〜

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続・歓喜の身体へ 呼吸法と発声法 朝日カルチャーセンター(新宿)

指揮者の香西克章さんと行う、呼吸法と発声法のワークショップです。西洋の発声と東洋の発声の違いよりは、むしろ共通点に着目しつつ行います。グレゴリオ聖歌と能の謡を謡いながら行うのですが、今回は、特にお腹に注目。

お腹に注目すれば、西洋も東洋もない。声を出すって悦楽です。

11月7日(土)10:00-13:00
受講料 朝日カルチャーセンター会員 4,515円 一般 5,145円

お申し込みは朝日カルチャーセンター(新宿)へ

http://www.asahiculture-shinjuku.com/

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寺子屋に関して東江寺さんへのお問い合わせ、ご連絡はご遠慮ください。
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