鳩翁道話の話を続けましょう。前回までは「仁」とは「無理のないこと」で、さらにいえばそのものの「あるべきよう」だという話が続いてきました。さあ、さらにその続きを聞いてみましょう。

******以下、本文の現代語訳*******

●「本心」を先生とする

鳩翁先生、いわく・・・。

まあ、正確にいえば「仁」と「本心」とはちょっとの違いはあるのですが、そんな事をうんぬんしていると話が長くなる。ここでは「本心」とは「無理のない」ものと思っていただいて問題はござりません。

今日こうやってみなさまおひとりおひとりにお目にかかってはおりますが、実はこんなことをしなくても、すべての人の心は、みなさま「無理のない」ということを知ることができます。

たとえば、言うべきでないことを言ったり、あるいはすべきでないことをしたりすると、何となく気分が悪い、すっきりしなくなる。すぐにそうなる。

それは「無理のない」心で無理をするからで、そうすると心が無理やりにねじられてしまって、気分が悪いのです。これは千人万人みな同じ事でござります。

古歌に・・

「鳴滝(なるたき)の 夜の嵐に 砕かれて 散る玉ごとに 宿る月かげ」

・・というのがござります。

この歌の意味を申しましょう。

夜の嵐に砕け散る滝の飛沫の水玉がキラキラ光っている。それは、その小さな水玉ひとつひとつに月の光が宿っているからだ。空にある月は確かに一つ。しかし、散る玉ごとに、おのおのその影、すなわち光を宿す。それが天理の霊妙な働きですが、この歌はまさしくそれを歌った歌でございます。

「仁」というのも月と同じく、ひとつの仁しかござらぬ。しかし、すべての人がこのたったひとつの「仁」をひとりひとりちゃんと分けて持っている。そこで世界中の人の心に、「無理のない」ということが理解ができるし、感じることもできる。だから、この「無理のない」心に従って物ごとをすれば、みな「あるべきよう」になって、孝行忠義も自然にできてくるというわけでござる。

これは何とも手っ取り早い学問ではござりませぬか。

たった一つ合点するだけで、百年学問した人と、その行いにおいて全く同じだということなのです。

どうぞ「本心」にお従いなされて、その「本心」すなわち「無理のない心」を先生として、日々お稽古、ご精進をなさるがよろしゅうござります。

我が本心を師匠とすれば、ご祝義もいらず、盆暮の付け届けもいれず、それでいて自然に忠孝がつとまるという、ありがたい教えでございます。

しかし、あまりに簡単だと、得てして疑いが起こるものじゃ。が、決してこれは安物買いではございませぬ。ここはぐんと押し切って、「本心」に従われるのがよろしいでしょう。

『中庸』には「性に率ふ、之れを道と謂ふ(率性之謂道)」という言葉がございます。これはひとつの証拠の文。お気遣いをされずに、どうぞお勤めくださりませ。

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【蛇足な解説】

▼早いうちに手を打つことが大事

「言うべきでないことを言ったり、あるいはすべきでないことをしたりすると、何となく気分が悪い、すっきりしなくなる」と鳩翁先生はおっしゃるが、「そうでもないよ」という人もいると思います。

でも、これは決して「気分が悪くない」わけではないのです。

ふだんから言うべきでないことを言ったり、すべきでないことをしていると、いつも気分が悪いので(自分では気づかなくてもね)、格別「あ、気分が悪くなった」と気がつかない。

魚に水が見えないのと同じ。肩こりがすごく激しい人は、自分が肩がこっていると感じないと同じ。でも、本当はすごく気分が悪い。だからいつも不機嫌だったりする。

でも、そうなってからでは大変です。

学生時代に学校のトイレでおしっこをしていたら英語の先生が隣に来てツレションになった。そのおり、かの先生から「君はこのごろ全然、授業に出ていないね」といわれた。

この英語の先生はお坊さんでもあり、哲学の先生でもありで、なかなか尊敬をしていたのですが、夜のバイトに勤しんでいた時期なので(当然、昼は寝ている)授業どころではなかった。だから、そんな尊敬する先生の授業でも出ませんでした。

で、「バイトが忙しくて」と言ったら、「将来、何ごとかをなそうとするならば、人にペコペコするようなバイトをしてはいけないよ」と言われた。笑いたくもないときに笑い、言いたくもないお世辞を言ったりすると、それがクセになって卑しくなるというのです。

これも同じですね。何事もクセになるとこわい。

でも、とはいえ、やっぱり言うべきでないことを言ったり、すべきでないことをしてしまったりはしますね。そんなときはすぐに「気分悪いけどね」って思うようにしよう!っと。

▼「心」と「こころ」とそして「思ひ」

さて、鳩翁先生が「仁」と同じだといっている「本心」ですが、これはいま私たちが使う「本心」とはちょっと違います。でも、これを云々するのは鳩翁先生も、ま、いっか、と言っているので云々しないことにします。

ただ、「心(シン)」と「こころ」とは違うということだけは書いておきますね。

「こころ」の特質をひとことでいえば「変わる」ことです。昨日はあの人が好きだったのに、今日はもうこの人が好きになっている。「こころがわり」なんて言葉があるように、こころというのはコロコロ変わるものです。

が、対象は変わっても、「人を好きになる」というその心的作用そのものは変わらない。これを、古語ではたとえば「思ひ」と言ったりします。「たとえば」というのは、コトバというのはいい加減なもので、その心的作用=「思ひ」と言い切れない場面もたくさん出てくるからです。

それはともかく・・・。

さて、で、この「思ひ」にはいくつかの種類があるのですが、その中でももっとも有名なものが「恋(こひ)」です。

「恋(こひ)」とは「乞ひ(beg)」です。

何かとても大事なものが欠落してしまっていて、それが埋められるまでは安心できない感情、それが「恋(こひ)=乞ひ」です。円の端っこに穴が空いていると、そこが気になってしかたがないミッシング・リングですね。

で、その対象は恋人のときもありますが、「乞食」なんてときは食べ物だし、能『隅田川』では人買いに誘拐された幼い我が子だったりします。その対象が手に入らない限り、落ち着かない、安心できない、何も手につかない。そんな状態が「恋」、すなわち「乞ひ」であり、そしてそれは「思ひ」というカテゴリーに入っています。

で、対象を具体化して特定したとき、それが「こころ」になります。

さて、こんな風に揺れ動く「こころ」や「思ひ」は鳩翁先生のおっしゃる「心(シン)=本心」が動いた状態です。

心が波立っている。

海が波立つ。ぼんやりして海辺を歩いていて、突然その波をざんぶと浴びるとしょっぱい。このしょっぱい海水の波が、いわば「こころ」です。でも、海でなくても、たとえば音でも波は生じるわけで、そんな「波という状態」、モノとしての波濤や音波ではなく、コトとしての「波」が、いわば「思ひ」です。

このコトとモノについても話したいことは色々あるのですが、それはひとまず措いておき・・・。

さあ、じゃあ、モノとしての波でもいいし、コトとしての波でもいいのですが、波を波として認識する主体、というか本体、それがあるはずです。それこそが実は「心」なのです。

が、世阿弥はそれを「言語を絶して心行所滅(しんぎょう・しょめつ)」なんていっているくらいに、そのものを私たち人間は認識することができない。でも、心行所滅なんていいながら「万能を一心につなぐ」なんてことも言っているから、認識はできないけど「芸」というスーパースキルを使うと何とかすることができちゃう。禅でも「以心伝心」なんていうし、「出してみろよ」と言われると出せないけど、何とかはできちゃう。

それが心です。

・・なんてことを書いているとワケわかんなくなって、鳩翁先生の意図から遠く離れてしまいますからそろそろやめますね。

ここら辺のことは「心の生まれた日」の方で書いていきます。

では、今日はここまで。